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徳翁良高 Tokuō Ryōkō (1649-1709)

 

永平正法眼蔵序 Eihei Shōbōgenzō jō [Preface to Eihei Shōbōgenzō] by 徳翁良高 Tokuō Ryōkō (1649-1709)

Tokuō's lineage

永平道元 Eihei Dōgen (1200-1253)
孤雲懐奘 Koun Ejō (1198-1280)
徹通義介 Tettsū Gikai (1219-1309)
螢山紹瑾 Keizan Jōkin (1268-1325)
明峰素哲 Meihō Sotetsu (1277-1350)
珠巌道珍 Shugan Dōchin (?-1387)
徹山旨廓 Tessan Shikaku (?-1376)
桂巌英昌 Keigan Eishō (1321-1412)
籌山了運 Chuzan Ryōun (1350-1432)
義山等仁 Gisan Tōnin (1386-1462)
紹嶽堅隆 Shōgaku Kenryū (?-1485)
幾年豊隆 Kinen Hōryū (?-1506)
提室智闡 Daishitsu Chisen (1461-1536)
虎渓正淳 Kokei Shōjun (?-1555)
雪窓祐輔 Sessō Yūho (?-1576)
海天玄聚 Kaiten Genju
州山春昌 Shūzan Shunshō (1590-1647)
超山誾越 Chōzan Gin'etsu (1581-1672)
福州光智 Fukushū Kōchi
明堂雄暾 Meidō Yūton
白峰玄滴 Hakuhō Genteki (1594-1670)
月舟宗胡 Gesshū Sōko (1618-1696)
徳翁良高 Tokuō Ryōkō (1649-1709)

 


What is this?
Ensō by Tokuō Ryōkō, 徳翁良高
http://www.kaeruan.org/k021-what-is-this-enso-by-tokuo-ryoko/

What is this?
TOTSU!!

Brushed by Ryōkō

良高筆 / 咄 / 是甚麼 *

* This character is more usually written 什

Tokuō Ryōkō (徳翁良高, 1649-1709)
hanging scroll, 168 cm × 35 cm, sumi on paper 76.9 cm × 25.4 cm. “What is this?” is the most frequent inscription on Zen circle paintings. A number of koans use this phrase. In case 17 of the Hekiganroku, Ummon asked his attendant monk every day for 18 years “What is this?” until one day the attendant said, “Oh, yes I understand.” In case 51, entitled “What is this?” Two monks visited Seppō in his hermitage, and when the master saw them coming, he pushed open the gate, came forward, and asked, “What is this?” The monks replied, “What is this?” Seppō bowed, and went back in side. “Totsu!” is a penetrating Zen shout, designed to awaken a student from his or her stupor. It is very similar to the more commonly known expression “Katsu!” Used as an inscription on an ensō, “What is this?” is a visual koan—”Is this circle your (buddha-) mind, the universe, the moon of enlightenment, or just a rice cake, or the bottom of a bucket?” Tokuō demands further, “Don't think, Don't think!”

The brushstrokes in this piece are especially rich and luminous, and it is one of the purest and finest examples of a zen circle ever created.

 

 

 徳翁良高

https://www.thosenji.com/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%8B%E7%9B%AE%E9%BB%92-%E9%AB%98%E5%B9%A2%E5%AF%BA/%E5%BE%B3%E7%BF%81%E8%89%AF%E9%AB%98/

徳翁良高


西來徳翁高和尚年譜

    門人 白龍 良英 良機等 輯録

慶安二年(1649)己丑

師、 諱は良高、字は道山、徳翁と號す。

父は藤氏野州宇都の宮の族なり。其の祖世々、戸祭縣に住す。後、居を武州に遷す。

母は大曽根氏。

是の年八月十九日、師を江府に生む。

兒なりしとき常に佛事を以て戯を爲す。僧伽を見ては即ち戀戀たり焉。人以て宿習を爲す也。


明暦元年(1655)

師、七歳。兄に就いて書を受く、一(た)び聞いて永く記ふ。


萬治二年(1659)己亥

師、十一歳。夏五月、父を喪す。


寛文元年(1661)辛丑

師、十三歳。母、居を于府の盛徳寺の傍らに遷す。師曰くに僧侶に親み、稍く離塵の志し有り。遂に 吉祥の良重和尚に投じて、童子の役を執る。 暇餘、僧儀を習う。


寛文三年(1663)癸卯

師、十五歳。夏、佛誕の日、祝髪得度す。


寛文五年(1668)乙巳

師、十七歳。是の年、盛徳寺に在て、夏を過ごす。禪者有り、維摩経を講す。師、之れを聴す。始めて出世の事、有ることを知る。純ら坐禪を學て、父母未生前の話を看る。間々禪關策進等を閲て以て策勵を爲す。


寛文九年(1669)己酉

師、二十一歳。秋八月、鐵眼光公、楞厳を海雲寺に講す。聴徒千餘人。師、其の數に與る焉。九月、寂川禪人を伴い、遠の初山に登り、獨湛和尚に謁す。一冬孜孜として参究す。


寛文十年(1670)庚戌

師、二十二歳。春二月、初山を辭し、黄蘗に到り、隠元和尚及び異朝の諸師を禮す。時に堂頭木庵和尚、戒會を開くに會て、師、満分戒を受く。期畢て攝の天王寺に適て、快圓律師の梵網を講する莚に従う。講罷て墨江に往き、 月舟老人を興禪菴に禮す。 其の示教を蒙り深く服膺す。尋て泉南に造て蔭凉鐵心和尚に參じ、做工夫の要を問う。心、其の款情を憐み、殊に顧耹を埀る。師、乃ち掛錫し勉強して參請す。

寛文十一年(1671)辛亥

師、二十三歳。秋九月、東に歸り母を省す。冬、赤山の法泉寺に安居す。


寛文十二年(1672)壬子

師、二十四歳、春三月、重和尚を吉祥に省す。諸兄弟、之を欸む。師、因に之に従て歳を卒ふ。


延宝(寚)元年(1673)癸丑

師、二十五歳、春二月、 潮音和尚を江府の大慈庵に禮し、心要を咨詢す。 音の上州に還に迄て、徃て之に従ふ。日あらずして、音、普照國師の喪に黄蘗に奔る。秋九月、音、還る。禪門寚訓を提唱し、師の輩を十餘員に命して、輪次に復講せしむ。師、乃ち辨論無礙、衆皆な感服す。冬十月、音、四衆の爲に戒會を建つ。受者一千餘人。師、時に引請と爲る。是を以て日夜憒閙なり、以へ爲らく參禪に便あらず。深く之を厭ふ。是の冬結制、師、悦衆に充らる。音、鞭策痛快なり、一衆勉勵し、省力を得る者多し。師、晝夜力て參し悱悱憤憤たり。因に傍僧問て曰く、公、什麼の公案をか看る。師曰く、父母未生前本來の面目と。僧曰く、嘗て力を得や、也た無や。師曰く、也不なり。僧曰く、公試に無字を單提して看よ。師、之を信受し兀兀として無の字に參す。一夜静中、覺へず、無無と叫ふ、心中噪悶し通身汗流る。翌日粥後、偶々経行する方て、忽然として話頭を失却し、胸宇朗朗として、雲開けて天を見るが如し。動定の二相、打定一片、始て知る向きの憒閙、即ち好工夫ならんことを。直に方丈に上り、所解を申ふ。音、曰く、好し是れ多少の省力なり。須く遮裡に向て轉身一回して始て得べし。道ことを見ずや、百尺竿頭に坐する底の人、然も入得すと雖も、未た眞と爲せず。百尺竿頭に一歩を進め、十方刹土に全身を現ん。師、禮して退く、是れ從り胸中又た竿頭を著く如し。寝食倶に忘す、一夜、聖僧前に向て長跪挿香、宵自り旦に達す。身心器界有ことを知らず。偶々香火の指頭に觸るることを覺て、疑滞泮然たり。翌早、威儀を具へ入室禮拝して曰く、夜來好消息、今朝更に自由。音曰く、夜來何の消息か有る。師、匝一匝。音曰く、此れ是れ風力の所轉。師、拂袖して出つ。音曰く、遮の風顚漢。師曰く、劔去て久し。音曰く、自領出去。師便ち歸堂。是れ從り永く馳求の念を歇得す。


延宝二年(1674)甲寅

師、二十六歳、春正月、音、世尊生下の話を擧して、衆に之を頌せしむ。師、頌して曰く、佛法現前す沙界の中、天を指し地を指して勞して功無し、雲門力を盡して正令を行するも、雪上に霜を加ふ又た一重。音、善しと稱す。秋九月、黄蘗木和尚、再ひ江府の瑞聖に住す。音、座元と爲る。師、亦た之に從て入衆。


延宝三年(1675)乙卯

師、二十七歳、春、音に從て、館林に返る。是の時に當て 、舟老人、化を加洲の大乘に旺にす。秋師適て之に從ふ。 日夜參扣増増智證を益す。舟、上堂、師、出て問ふ、至道無難、唯嫌揀擇、何なるか是れ不揀擇。趙州云く、天上天下唯我獨尊と云ふ意旨如何ん。舟曰く、天上天下唯我獨尊。師曰く、還て學人か水を借て花を獻することを許んや、また無しや。舟曰く、試に獻せよ看ん。師曰く、水有り皆月を含む、山雲を帯ずといふこと無し。舟曰く、似たることは則ち似り、是なることは未た是ならす。師、拳頭を堅て曰く、遮個是か不是か。舟曰く、只た遮の至道無難、唯嫌揀擇。師曰く、将に謂へり胡鬚赤と更に赤鬚胡の在る、便ち禮拝。舟、微笑す。一日、舟、從容して師に謂て曰く、汝ち洞濟に歴參すと雖も、素より業を永平の裔に受く、若し流に泝り源を知らば、則、他日老僧に辜負すること勿れと。師、唯唯して拝退。

延宝四年(1676)丙辰

師、二十八歳、秋、一同參と永平に登て祖塔を拝し、徑に行に勢の皇廟に謁し、遂に畿内の靈跡を観光す。冬、乃ち大乘に還り、偶偶定中の吟を作して曰く、從來家賊防き難しと雖も、識得すれば分明に寃を作さす、四海而今ま清きこと鏡に似り、六窻鎖すこと無して黃昏に對す。後ち道友に語て曰く、此の頌、只た是れ淨潔の毬子に打す、今や一一下語し自ら點破し去ん。乃ち從來家賊防き難しと雖も、頭に迷て影を逐ふ、識得すれば分明に寃を作さす、賊を認て子と爲す、四海而今ま清きこと鏡に似り、百雑碎六窻鎖すこと無して黃昏に對す、鬼窟裡に向て活計を作す。畢竟如何ん咄。


延宝五年(1677)丁巳

師、二十九歳、秋、大乘を辭し、濃州の長福寺に寓す。冬、萬徳音和尚開堂。師、因に之を省す。音、師の來るを見て即ち問ふ、久く大方に遊し、汝ち卻て新會處有や。師曰く、青山異路無く、東西意に任て遊ふ。音曰く、別に有ること莫しや。師曰く、行ては到る水の窮まる處、坐ては看る雲の起る時。音曰く、玄沙未徹の意、作麼生ん。師曰く、今日親く萬徳に到る。音曰く、不是、不是。師曰く、幸に和尚の不是の説に遭ふ。音便ち喝す。師便ち禮拝。音、一日上堂。師出て問ふ、千林の祥瑞、甘露を灑を待ち、萬象圍遶して法雷を聴んことを要す、好個の時節請ふ師提唱。音曰く、刹説塵説熾然説。師曰く、恁麼ならは則、龍の水を得か如く、虎の山に靠に似たり。音曰く、汝か脚跟下作麼生ん。師便ち喝す。音打すこと一棒して曰く、是れ汝を賞するか、是れ汝を罸するか。師曰く、兩顆の鼠糞拈出するに勞せす。音又打すこと一棒。師曰く、遮個は且く置く、和尚前日玄沙未徹の因縁を問ふ、今日別に一轉語有り。音曰く、試に道へ看ん。師曰く、賊、賊を知る。音曰く、一半を道得す。師、禮退す。音、命して侍司に居す。


延宝六年(1678)戊午

師、三十歳、春正月、武州川崎村の信士、一庵を建て、萬徳に來て主僧を請す。音乃ち師に命して往かしむ。師乃ち入庵、諸縁を管せす、終日兀兀として宴坐す。


延宝七年(1679)己未

師、三十一歳、錫州の柳島の臨川庵に轉す。參徒數輩入里乞食共に寂寥に甘す。


延宝八年(1680)庚申

師、三十二歳、秋、江府に之く。是の歳冬 、濃州智勝南鍼和尚、制を結んと欲す。故に今ま殊に使を來し、師の衆に首たらんことを請す。師、乃ち之に應す。 立春鍼、師に命して秉拂せしむ。僧問ふ、師、誰か家の曲をか唱へ、宗風誰にか嗣く、師曰く、孤舟月に載て滄浪に浮ふ、清白傳家只た斯の若し。僧曰く、恁麼ならば則、智勝道場に半座を分て大乘室内に宗燈を挑ん。師曰く、事を聴こと眞ならざれば鐘を喚て甕と作す。僧曰く、若し樓に上て望は不んは爭か滄海の寛ことを知ん。師曰く、切に忌む妄りに消息を通することを。僧、禮拝。一衆、其の提唱を聴て甚だ稱歎す。時に舟老人既に大乘を退て洛巽の禪定に隠る。師の立僧の選を聞て大に歡悦す。

天和元年(1681)

師、三十三歳、春三月、重和尚を歸省。吉祥に遂に衆請に應し、碧巖集及ひ諸祖の語要を講す。秋八月、萬徳音和尚、江府に來り、眞光庵に寓す。師、往て之に謁す。音、大に喜ひ清談日を終ふ。且つ謂て曰く、汝ち久く老僧に參す、然れとも因縁、洞家に在り、宜く扶宗の大志を抱て、既倒の狂瀾を廽すへしと。志、拝辭して去る。


天和二年(1682)壬戌

師、三十四歳、秋九月、吉祥に在て 、請を受け、下総の州、正泉寺に住す。 地、陋しと雖も雲衲六七輩共に古風を守り晝參夕究懈ること無し。


天和三年(1683)癸亥

師、三十五歳 、春正月、舟老人を禪定に省す。舟、大に悦竟に師をして入室せしめ、密に衣法并に嚢祖の戒本等を付す。 師、拝受して還る。夏四月、総持に瑞世し、便路、卍兄を大乘に、白兄を瑞龍に、嶺公を寚圓に訪ひ、而して京師に詣り綸宣を承く。六月、正泉に返る。秋七月、吉祥の重和尚、病革なり。師、趨て之を視る、僅に一日を越て示寂す。喪事畢て乃ち還る。 是の歳五月、母喪す。 是に於て大乘妙典を書寫し、毎字一禮、以て之か冥福を追薦す。寺隅、願王堂有り、冬に於て諸を正殿の右に徙し、以て僧堂に擬し而して新に衆寮を構ふ。


貞享元年(1684)甲子

師、三十六歳、春三月、堂宇落成す。并に本尊の座光を莊嚴し、新に文殊普賢及ひ寚龕を造り、開光安座す。又た藥師地藏の古像有り、頗る損壊す。茲の年し並ひ修飾し安奉供養す。是に於て百廢俱に擧る。夏四月、結制多衆濟濟として丕、永平の宗風を振ふ。緇素慕羶し遠近、希有と稱す。


貞享二年(1685)乙丑

師、三十七歳、結夏、雲衲七百指、入室請益、顓ら本分を以て之を策勵す。衆咸く精進不退にして稍稍力を得る者有り。鍼和尚訃至る、即ち位を設て拈香、曰く、忽然として霧海に南鍼を失す、渺渺として天涯尋す可らず、唯、濃陽雲外の月のみ有て、夜來舊に依て西岑に耀く。秋九月特に走て塔を拝す。


貞享三年(1686)丙寅

師、三十八歳、結冬、徳山托鉢の話を擧して、衆に示す。自ら頌して曰く、浪静にして遊魚、水靣に浮ふ、風來て驚起して深潭に入る、嶽を倒し湫を飜し見る可き無し、前三三と後三三與(と)。


貞享四年(1687)丁卯

師、三十九歳、秋八月、偶々最乘寺に抵り、了庵和尚の塔を禮す。歸路、鎌倉江の島等の名勝を討覽す。

元禄元年(1688)戊辰

師、四十歳、冬十月、徒を領して化を總寧に助く。寺主、融峯和尚、待遇特に厚し。期満て山に還る。


元禄二年(1689)己巳

師、四十一歳、夏五月、 備の定林、席を虚す。檀越水の谷侯(出羽守)使を總寧に遣し、其の人を選て席を繼んことを請ふ。峯公、師を擧く。師、乃ち之に應す。 六月軫を發して西征し、過て禪定老人を省す。秋七月、進山雲衲駢ひ臻り道聲籍籍たり。


元禄三年(1690)庚午

師、四十二歳、結夏。新に禪堂を建て衆千指に満ち、永瑩の二規に遵行す。檀越増々歸仰し、緇素歸戒する者の勝て計ふ可らず。卍山兄、將に大乘を退んとす。檀越房州居士と胥ひ議して、師をして席を繼か令んと欲す。冬十月、慧嶽法弟をして之を請せ使む。重を禪定老人に假る。故を以て辭すること能はずして、乃ち之を領す。


元禄四年(1691)辛未

師、四十三歳、 春二月、法旆を大乘に移す。 三月五日、祝國開堂、海衆一千五百指、法席日に盛んなり。秋、四方竸ひ來り衆を容に地無し。是に於て師、三轉語を以て之を驗む。


元禄五年(1692)壬甲

師、四十四歳、秋八月、舟老人を興禪に省す。(時に老人、卍山をして禪定に住せ令めて自ら興禪に退く)老人、師の至るを見て大に欣慰し、而して其の化の盛を稱し、且つ賜に偈を以て曰く、萬里神光鍼芥投す、同風句裡來由有り、未た逢はるに施設す千般の語、分付す倶低の一指頭。師、韻を和して之を謝し拝辭して還る。


元禄六年(1693)癸酉

師、四十五歳、秋七月、江府に之く、蓋し三僧司、官に我か宗結制の規縄を更して定んことを請ふ。故に一宗の名藍甲刹を會して命を奉しむ。大乘も亦た與る。時に府内の緇白參禮する者踵を接す。冬十月乃ち還る。

元禄七年(1694)甲戌

師、四十六歳、純を天童の舊規に則て、入室普説或は學者をして請益せ令む。僧問ふ、南泉猫兒を斬る意旨如何ん。師曰く、露柱血滴滴。僧曰く、趙州艸鞋を載く又た作麼生。師曰く、燈籠閙啾啾。僧曰く、畢竟如何ん。師曰く、頭へ墮すなり。其の應酬大槩此の如し。

元禄八年(1695)乙亥

師、四十七歳、春三月、舟老人、禪定に歸る。師、復た往て安を問ふ。時に愚白卍山の諸昆仲も亦た會す。老人大に悦て曰く、老僧身心疲倦す、餘齢久からず、今日の一會甚た希有と爲す。乃ち後事を囑し守塔の規約を申ふ。各々命を領して而して罷く。遂に卍山兄を鷹峯に訪ふ。夏四月、山に還る。六月、國主菅宰相、勝地を城南に賜ひ、而して寺を遷さしむ。師、即日上堂、喜を叙す。徑に城を造て恩を謝す。初め大乘、數々兵燹に罹り、地を易ること再三。而して狭隘卑□(氵茲土)なり。是より先き月舟卍山共に之を患ふ。檀越房州居士と相ひ議し、疏を作て之を乞ふ。今にして乃ち其の所を得り。師の喜ひ知る可き。已に是に於て衆を率て城野に分衛し、化を緇素に募り、或は衆を領して山に入り、荊蓁を刈夷し、石を曳き、土を搬ひ、力を經營に竭す。已に秋九月、黒瀧、音和尚示寂す訃至る。師、眞を展て供養、文を作て之を祭る。冬十二月、禪定老人宿痾發す。師、使を遣して奉候す。

元禄九年(1696)丙子

師、四十八歳、春正月、禪定の訃至る。師、對眞擧哀、如法に修禮す。晦に至て喪事既に畢る。 二月朔、事に因て (時幣、院に随て嗣を易ふ。師、之を俲ひ肎せず。而して小人の爲に謀らる所なり。殆んと將に於に奸穽に陥んとす。是れ從り遂に遁て從容として遊化す。席暖なるに遑たらず。 )院を退く。 衆に示して曰く、錯錯錯六年間、夢、怨債を結ふ、春風一陣忽ち吹醒、柱杖子何れの嶺の石にか靠ん、直に禪定に抵て師翁の塔を禮し、遂に備中明崎山韜光庵に遁る。初め師の徒、睡翁此に寓す。今ま師の退皷を聞て、出て松山城に迎へ、請して以て之に居しむ。秋八月、泉南に適り愚白兄と偕し、鷹峯に登り、罪を卍山兄に謝す。 九月、備陽に還り、西来庵を里巷に移して、冬を度る。 是れ亦た睡翁、預して古基を求て締構する所なり。


元禄十年(1697)丁丑

師、四十九歳、春二月、備後千手の桂翁長老と同く藝州に遊ひ、國泰に抵る。寺主、慇懃に迎待す。留ること旬日、緇白尊崇し道を問ふ者の日に門に盈つ。遂に嚴島の祠に詣し、還て佛通寺に至り、愚中の遺跡を弔ふ。三原に過り宗光寺に宿す。寺、滄海に臨て宇を構へ、林巒秀偉なり。師、月出て松間風未だ起らず、孤燈獨り照す釣魚の舟と云ふの句有り。去て矢野の善昌を訪ふ。寺主良随なる者は師の參徒なり。是に於て師の枉顧を喜ふ、奉迎特に恭し。夏四月、歸庵。再ひ清瀧の勝地を新見の府に卜得し、乃ち西来庵を移んと欲す。近里相助け址を開く。冬、善昌の良随、再ひ龍洞庵を興して、師を請す。師、二三子と安居す。居士淨光等随喜して之を供養す。是の地や村落を距ること殆んと一牛鳴、而して前靣の數峯畫の如に列り。屋後の懸崖、屏の如に峙つ。松風、諷誦を助け、蘿月、安禪に伴ふ。師時に、興に乘して吟詠す。露、柴扉に滴て、衲衣を濕す、沈沈たる孤月、空圍を照す、暁來睡起して欄外を望は、萬嶽の清霜潔して璣に似り、等の數偈有り。十一月、善昌に就て四衆の爲に戒會を建つ。


元禄十一年(1698)戊寅

師、五十歳、春二月、福山賢忠寺に遊ひ、信州の節廣眞月の二長老來て相ひ訪に會す。師、其の遠來を感し、之を謝するに偈を以てす。尋て竿頭公を永祥に訪ふ。是より先き頭、長川の獨秀長老と同く謀て曰く、玉島の衆外護を使して庵を建て、師を延き之に居しめんと。今ま師、偶々至る即ち、其の徒、丹山等に命し、師に從す。往て宅を相みせしむ。師、行て柏島の海徳寺に至る。明日、師、寺主活道及ひ獨秀丹山等と、北山に登れは則上に宇有り、觀世音を安す。屋壁剥落すと雖も、基址猶を存せり。冽泉巖下に湧き、奇石松間に雜る。潮音澎濞として天籟鏘鏗たり。遠近の山嶽徃來の檣㠶、城市田園碁の如くに布き、星の如くに列し、其の勝、悉く記す可らず。師、大に悦ひ補陀洛を以て山に名く。圓通を以て庵に命す。二三子をして營構せ使む。而して自ら西來に還る。夏四月、圓通成るを告く。師、徃て入庵して(正徳中、庵改て寺と稱す)夏を終ふ。是の年し遂に西來の舊室を移し、今の寺所に新に大殿厨庫を建て、秋八月、成を告く。即、先師舟老人を請して開祖と爲し、自ら第二世に居る。時に門弟子及ひ外護の居士等、之を會す。是に於て十九日を卜し、陞座を請す。蓋し師の誕日なればなり。師、偈を説て自ら祝するに、壽林頻りに綻ふ、桂花蘂一陣の清風満院香しと云の句有り。冬、十餘輩と安居、邑主關侯(大藏後備前の守と任す)師の徳風を聞て使を遣して温存す。

元禄十二年(1699)己卯

師、五十一歳、春正月、備後法雲院主海門謁して曰く、今夏、師、弊刹に辱臨して結制安居せよ、敢て請すと。蓋し前の賢忠覺海公の命する所なり。夏四月、師、法雲に就て開堂、清衆八十餘、即ち海門を擧して、立僧たらしむ。秋七月、備後より還る。九月、江府に行て族兄即翁を省せんと欲す。祥麟等を擕て禪定に登り鷹峯を訪ふ。冬、府に到る。翁、大に悦ひ、喜運寺主圓通長老、師を請して淨圓に居しめ(蓋し淨圓は喜運の支院なり)慇懃に之を供養す。

元禄十三年(1700)庚申

師、五十二歳、春正月、吉祥寺の學侶、師を請し、現前師と爲し、戒會を建つ。道俗、菩薩戒を受る者の六千餘指なり。喜運寺主、居士水村宗賢を教化して、師の爲に庵を中丸村に卓しむ。夏四月、宗賢及ひ三名部凉空等、各々其の宅に師を請し供養す。その後ち庵に延ふ。其の地や、林密に境寂し宜く棲息すべきのみ。即名て 棲鳳林 と曰ふ。偈を作て喜を志、棲鳳林中の趣幽間、紫微に勝れりと云ふ句有り。秋、師、梅峯卍山を江府の族寓に訪ふ。二師、宗弊を嘆し、乃ち官に哀訴して之を正さんと欲す。師も亦た之を謀る。九月、遂に西し備陽に返る。時に法曾邑三上氏、師の爲に壽塔を西来に樹す。慧嶽法弟(嶽、艸庵を神代に建て雲光と曰ふ、自ら開山と爲て之に居る。幾く無して化す。師特に牌を西來の祖堂に入て第三世と爲すなり)先師の霊骨及ひ法衣を帯ひ來て之を寄附するに會ふ。師、大に歡悦し衣は永く常住に鎭す。骨は報恩塔に納む。


元禄十四年(1701)辛己

師、五十三歳、春正月、道空居士來り省す。因に曰く、願は明年、山に就て結制せは則、弟子、浴室禅堂を建て以て衆に供す可しと。師、其の愨誠を感し、之に諾す。乃ち睡翁をして蠱ことを幹よくす。是より先き、圓通庵に觀音堂を構せしむ。二月、成るを報す。師、嶽弟と同く徃き、三月十八日を以て陞堂慶讃遷座す。既に吉備津の祠に詣し、遂に舩を買て讚州に造り諸勝を周覽す。復た圓通に還る。居士淨光、師を龍洞庵に請し、夏を結んと欲す。會々師遊行して半夏に及ふ比ろにして乃ち徃く。雲衲十餘追陪す。居士も衆に随て禪誦す。師、衆に示して曰く、諸方は九旬禁足、此間は半夏安居、霊山の舊例に依らず、豈に少室の新條を攀ん。山郭水村随縁放曠溪邉樹下、性に任せて逍遥す。然りと雖も畢竟何の慿據か有ん。拂子を豎てて曰く、只た看る六月満天の雪、一點紅爐火自ら凉し。秋八月、艸木村に過る義忠庵主を睡雲軒に訪ふ、金風、晩課を助け、玉菓、朝糇に備ふと云ふの句有り。既にして西來に還る。時に浴室已に成る。是に於て開浴設齋、衆及ひ隣峯に供し、而して預め開山舟老人七周諱の佛事を修す。冬又た圓通に適く。


元禄十五年(1702)壬午

師、五十四歳、春正月十日、正に舟老人の忌辰に當て、拈香、生平の寃恨卒に雪して難し、宇水茫茫として人を愁殺すと云ふ句有り。是の歳し、新見侯、西來庵を以て寺と稱するに准す。二月、禪堂落す。本邑偶々、池魚の災有り。故に結夏を止んと議す。三月三日、道空居士俄に死す。師、之を聞て感嗟已まず。卒に結制を果す。蓋し其の積年傘?湯の功を感し、且つ此の擧や、居士の發願する所にして、自ら知浴と爲て衆に供するの約有れはなり。夏四月、師、圓通より還る。清衆六百指に及ふ。一日對靈小參、居士の爲に冥福を薦すなり。伽藍狭小なると雖も、而も規則整嚴なり。見聞の緇素愈々益々之を尊信す。秋八月、雲州に遊ひ、伯州に適く。大山杵築等の靈跡を討ぬ。雲樹寺に過て三光國師の塔を禮す。靈光幽に照す影堂の下、秋晩て四林雲樹埀ると云ふ句有り。到る處ろ問法受戒者、蟻の如に集る。九月、西來に還り、又た玉島に之く。武州水村宗賢、乞て曰く、 棲鳳林 を州の桶川に遷し、師を迎て之を居しめんと欲すと。師、之に從ふ。冬十月、發錫し路ち濃を歴へ智勝に過り、鍼和尚の塔を禮す。十二月、江府に抵る。時に喜運の圓通長老結制、師の偶爾として至るを喜ひ、慇懃に迎待し、衆の爲に開示を請す。師、乃ち陞座、趙州柏樹子の話を擧して曰く、趙州恁麼の爲人實に是れ親切奈何せん、此の僧の舌頭に坐斷すること能はず。人有り、山僧に、如何なるか是れ祖師西来意と問は、他に向て道ん、十字街頭の破艸鞋と。更に如何と問は、柱杖を拈しめ更に打ん、且く道へ、古人と相ひ去ること多少そと。便ち下座。一衆増々服膺す。遂に淨圓に寓して歳を終ふ

元禄十六年(1703)癸未

師、五十五歳、春正月、喜運の圓通長老、師を請して尸羅會を建て匹衆得戒する者の稱て數ふ可らずなり。二月、比郭谷中に寓居す、今の眞照庵、是れなり。三月、 棲鳳林 成る。師、往て十餘衆と安居す。是れ則ち居士小高良任なる者の雅より師の徳を慕ひ、宗賢と謀り、其の園を捨て、而して構する所なり。傍て辨天の祠を立て、扁して徳昭と曰く。(蓋し神徳昭昭の語を取れり)水村氏、家を擧て參禮し四事供給す。秋七月、師、又府に適く。八月、官、永平及ひ總持と洞門名刹の長老十餘輩と、則ち梅卍二師訴ふ所を以て、其の是非を質さしむ。然れとも信疑相半にして一是有ること無し。是に於てや祠部阿部侯(飛騨の守)職に當て譲らずして之を斷し、二師の義を以て正と爲す。公卿と胥ひ議し、而して之を上に聞し、竟に代附及ひ院に因て嗣を易る等の事を禁し、乃ち永平總持三僧司等に命して洞門大小の寺院に論告せしむ。師、宗弊の革るを喜ひ、即ち二師と同く官に詣し恩を謝せんとなり。又た護法明鑒を著して詳に是の事を記す。冬十月、 棲鳳 に還て安居す。宗賢亦た衆に随て參究す。師、其の誠心を感し、而して安陀會(衣?)を付す。


寚(宝)永元年(1704)甲申

師、五十六歳、春正月、即翁を江府に省す。翁、衰老を以て致仕す。乃ち師に就て度を求む。師、兄の爲に師と作ることを難る。故に黒龍音和尚の位を設け戒師と爲し、而して後ち自ら代て剃度の儀を行ふ。翁嘗て菩薩戒及ひ法名を黒龍に禀くなり。後に師、其の徒、祖燈を遣し、嚫儀を黒龍の眞寂塔前に備へ、書を致して之を報す。住持大綱、答書有り、深く感稱す。三月、 棲鳳 に還る。後越の慈雲庵主虚白、志賀某と來謁して曰く、師を弊庵に請し、夏を結んと欲す。敢て乞ふ師其れ焉に莅しめんと。師、之を頷す。夏四月、行装して發し三國嶺に到れは、則、山中雪、未た處處花猶發をせさるを見て、行々吟して曰く、緑樹穿ち來る峯幾く重そ、芳菲落盡して薫風に伴ふ、嶺頭驚き見る別の春色、四月桃花雪に映して紅なりと。越に入り、雲洞庵に過り、顯窓和尚の遺跡を討ぬ。既に慈雲に到れは則、虚白及ひ諸外護、之を途に迎へ欽奉して庵に入しむ。師、座に就て示衆。庵主問ふ、圓通大士、圓通門に入る時如何。師曰く、谿聲廣長舌、山色清淨身。主曰く、萬法と侶たらざる底、是れ何人そ。師、闍黎と召す。主、應諾す。師曰く、禮拝著。主曰く、若し流水を得ずは定て、應に別山に過るへし。便ち禮拝。其の垂誨を與り聞く者の、皆な難遇の念ひを發し、而して益々仰讃す。福原氏、情を頎て供給す。清衆六十餘人、茅を巖邉に結て居し、晝夜勉勵し辨道純一なり。四衆求戒の者の山谷、膝を容るに地無し。秋七月、眞成及ひ雲洞、皆師を請し戒會を建つ。授戒の者の記するに遑あらず。八月、松嶺に遊ひて、温泉に浴す。因に松壽庵に就て示衆あり。長岡安禪の素堂長老、亦た請して戒會を建つ。受者、前に倍す。邑主牧野侯、師の道風を聞て、之を其の館たに請し、禮を以て待遇す。而して加るに束帛の贐け有り。洞福庵に過り、湖海和尚の遺像に謁す。翌日、法子悦山、普光寺に請して供養す。冬、髙田城林泉寺に適く。(蓋し師曽て江府に在て請を受く)寺主大白、衆を領して門に奉迎し、延て東堂に居らしむ。四方參玄の徒、師の至るを聞て、風を望て之に趨る。挂搭を免する者の二百五十人、毘尼嚴整なり。見聞随喜の徒ら未曾有なりと稱す。是より先き、師の嗣、元妙、佐州總源寺に住し、特に來て省覲。因に請して曰く、師、法趾を海島に移し、而して廣く化縁を結んことを。師、之を頷す。

寚(宝)永二年(1705)乙酉

師、五十七歳、春正月、使を遣し、卍山兄古稀の壽を賀す。優曇花發く七旬の春、已墜の宗風挽起して新なりと云の句有り。解後、城中の諸寺各々請し、之を供養す。二月、林泉を辭して萬福に行んとす。直江に抵て雪に阻られ觀音寺に寓止する者の、浹旬已にして便路、彌彦の神祠に詣すれは則、萬福巷長老來て、法駕を迎へ、之に居しむること三旬。戒會を建て陞座を請す。是に於や檀信歸崇供事腆盛なり。信士有り、師の爲に舟を新潟に泛ふ。師、悠然として之に應す。詩を賦し以て其の勝を記す。夏、種月に造り、南英和尚の遺躅を弔ふ。國上山に登り、泰澄大師の像を禮し、慈眼に過る。寺主獨耀、齋を設て之を供す。將に佐州に航せんとす時に、妙長老、小師寬龍をして舩を艤て焉を迎は遣む。四月八日、薄暮に纜を解く、海風微波を鼓し、布帆、半月を掛く、黎明ひに岸に到る。妙、諸檀と象駕を奉迎す。鐘鼓鏗鍧延て、其の寺に歸る。國を擧て瞻禮すること、世尊を舎衛城に覩か如し。乃ち留ること月餘、四衆圍遶す。爲に會を開て尸羅を授く。縣令辻守遊居士、數々來て親炙し、而して和歌を呈め以て所解を述ふ。師、偈を以て之に示す。是に於て増々歸服す。其の餘の僚佐、先を爭て宅に請し、問法供養恐くは之に及は不んことを。師、偏く州中の遺蹤を討ね、乃ち順徳帝の山陵に謁す。閏四月、歸楫を理し、妙及ひ緇素相ひ送て、萩津に至て拝別す。師、還て越後に到れは即、勝尾天樹寺の請に應し、戒會を建つ。四衆、戒を禀くる者一千餘指。五月、新般(シバ)田に過り、岫雲長老を淨賢寺に訪ふ。師の舊友なれはなり。欸留數日。遂に羽を踰り奥に抵り、満願大士を柳津に禮し、會津を經へ白河に過り、日光山に登り、六月、 桶川 に還る。宗賢、大に喜ひ宅に延て供養す。時に河越長喜院結制なり。因に師を請て衆の爲に開示せしむ。城中の士女來參する者の塗に絡繹たり。秋七月、江府に適く。京極無生居士、常に禪教の諸師と遊ふ。師、素より交り厚し。是に於て懇請して禪門の菩薩戒を重受す。偈を呈して謝を伸ふ。且つ觀音の靈像を 棲鳳 に寄す。其の相好莊嚴頗る度に稱ふ。又た長野主膳なる者の有り。上宮太子の畫像を奉して、以て眞照庵に安す。其の霊感有るを以てなり。九月、眞照を以て圭峯に囑し、旁ら一室を築き、以て即翁逸老の所と爲す。 棲鳳 を以て悟融に囑し、而して後ち將に西歸せんとす。道を信州に取り、松本に過る。因に松嶽の節廣長老、邀て其の寺に請し、冬を過さしむ。參徒の者五十人、問法受戒の者の籌、室に滿つ。

寚(宝)永三年(1706)丙戌

師、五十八歳、春正月、湛然をして江府に之か使め、勝地を卜して眞照庵を徙し、上宮太子の像を鐫て安置す。而して衣資を捨てて永く香火の資に充つ。蓋し師、即翁仙嶺昆季三人と此に至て始て宿願を償ふ。嶺、家に在て夙に靈機を發し、即ち、師に就て得度す。後ち法を蘗門に受く。不幸にして先きに寂す。故に牌を此の庵に安し、第一世と爲す。嗣子圭峯、緒を守り甚た勉む。二月、信州天正の眞月長老、懇請す。師、乃ち仁科に適き之に留ること數旬。尋て靈松寺に上り、實峯和尚の塔を禮し、大澤寺に抵り絶方和尚の像に謁す。寺主石鼎長老、舊交を以ての故に之に待すること甚た篤し。且つ四衆の爲に戒を授んことを乞ふ。三月の交、伊奈に到る。是に於て金鳳の廉公、諸檀と迎接し延て正寝に居ししめ、結制。安衆雲水幾乎一百五十人。乃ち雄禪英を擧て版首と爲す。秉拂提唱を爲さしむ。遠近、道慕ひ尸羅を受くる者の、記するに遑あらずなり。半夏上堂、衆に示して曰く、人間六月甚だ熱すと雖も、駒嶽依然として雪天に満つ、道人の日用實に此の如し、五濁劫中火裡の蓮、參。秋七月、岐岨を經て濃に至り、慧和尚を徳巖に、照公を小松に訪ふ。皆盛禮を以て之に待す。師、照を勸めて開堂せしむ。照は黒瀧の嫡子にして徳臘倶に尊、猶を且つ恭謙黙養、世と竸はす。然と雖も深く、師、舊交を忘れず、再三之を請するの至情を感す。乃ち終に之に從ふ。期るに來冬を以てす。且つ師の焉に臨み、化を助んことを請ふ。師、亦た之を聴るす。照、送て臨川に到て乃ち別る。師、岩崎より舟を發し、勢の皇廟に謁し、八月、京師に抵り禪定に登り、先師舟老人の爲に齋を設け、黄蘗に過て壽山公を緑樹院に訪ふ。語、小松開堂の事に及ふ。山喜色靣に溢る。別に臨て、僧有り問ふ。承り聞く、和尚久く黒瀧に參して、濟水を探る、甚と爲て卻て、洞宗に嗣く。師曰く、靈源の一滴明に皎潔、支派任も他あれ暗に流注することを。僧曰く、畢竟兩派是れ同か、是れ別か。師曰く、處處の緑楊、馬を繋に堪り、家家、路有り長安に透る。僧曰く、謂つ可し、威音前の一箭、兩重の山を射透す。師曰く、切に忌む鐘を喚て甕と作すことを。僧、作禮して去る。師、徑に行て、卍山兄を鷹峰に省す。尋て峨山の潭公、丹陽の嶺公を訪ひ、永澤に登り、通幻和尚の塔を禮す。又た泉南に過り成合の白兄、興禪の堂兄の遺跡を弔ふ。九月、玉島に還り、外護の屬ら師の歸り、且つ龍象從ひ至るを喜び、即ち結制を請す。鑑寺、雄禪、諸外護と胥ひ議し力を勠て、堂舎を指顧に新にす。十月の望、開堂第三番、先師舟老人の爲に乳恩の香を拈す。祥麟の瑞を擧て首座と爲す。十二月、菩薩戒を授く。

寚(宝)永四年(1707)丁亥

師、五十九歳、春正月、提山をして濃の大慈に問せ遣む。開堂の約を申するなり。二月、師、西來に歸り、邑主關侯に覲す。關侯も亦た使を使して存問し、且つ靈祠を西來に立て、以て先祖に奉することを得んことを請すなり。師、之を聽るす。三月、二三の玄侶を携へ播の書寫及廣峯増位法華山等の靈蹤を探る。遂に有馬に浴す。因に淨光來り省して曰く、日前(サキニ)山を買て頗る佳なり。艸庵を締て而して以て師の偃息に供せんとす。師、若し賁臨を辱せは則ち弟子か願なり。其の孝情を感して之に從ふ。乃ち居士を伴て備後に適く。眞俗遠く邀へ卒に庵所に到れは則、其の境、高爽にして怪たる兮。其の泉風致、愛しつ可しなり。室の正靣に無量壽佛を安す。是に於てや山を永壽と名け、庵を玉泉と號す。參徒三十餘人、晝夜黽勉として參究す。淨光か妻、妙光も亦た雉髪して衆に随ふ。時に衆の爲に開戒、受者、勝て計ふ可らず。夏六月、大慈照公、柏州座元をして報聘せ使む。秋七月、西來の祠堂成る。師、西來に還る。關侯、寺に就て齋を設け佛事を請するなり。師乃ち木主を安て拈香、清瀧巖畔雲晴て後ち、皎月流光碧天に曜くと云ふ句有り。八月、舊痾を作州に浴治す。九月、玉島從り濃に適く。路を山崎に取り、木橋法弟を眞成に訪ふ。時に寂照長老、國侯の命に應し、席を西肥の髙傳に董すなり。即ち特に使を馳せて書を奉し、語録を呈進す。洛に届るの日、越中瑞龍の良準長老も亦た偶々洛に在り。師の至るを聞て即ち旅館に來省す。師、大に忻慰す。已に小松に到れは則、照公衆を率い鐘鼓し門に迎接し、歡躍禮待す。居士龜山氏預め新室を構へ師を延く。師、入居す。之に命して休休庵と曰ふ。直心居士來參し問て曰く、久く師の道風を聞て、今日始て相見、如何なるか是れ相見の事。師曰く、主山は低頭し案山は合掌す。士曰く、相見の事は已に畢る、如何か是れ曹洞宗。師曰く、綿綿密密風を通せず。士曰く、甚麼んと爲てか風を通せざる。師曰く、山僧も也た不會。士曰く、什麼の通し難きことか有ん。師曰く、居士作麼生。士曰く、足下雲生す。師曰く、好箇の消息。又た偈を示して曰く、作家相見の事、露柱燈籠に對す、吾か宗綿密の處、唯た許るす久参の通することを。十月十日、開堂。師、爲に白槌證明す。龍象殆ど二百人。一日、衆、師に上堂を請す。堂頭照公、引座畢て、再ひ皷を鳴し、師便ち座に據る。一衆提唱を聽て大に悦服す。

寚(宝)永五年(1708)戊子

師、六十歳、春正月、師、歸裝を振として、照、送て臨川に到り、同く音和尚の塔を禮す。(蓋し臨川の者、音和尚示寂の地なり)閏正月、江州の靈水に抵る。寺主演公尼、智勝院等、禮待甚た厚し。留ること數日。二月、玉島に還る。鑒寺雄禪、諸外護と師の爲に壽塔を造り、肖像を安す。大慈照公、使を遣し安を問ひ、且つ謝を伸ふ。播州久學大震公、來謁して曰く、弊刹今茲の冬方に結制せんとす。敢て請す。師、狂顧して之に臨んことを。師、其の誠愨を感し、之を聽るす。夏、備後の功徳寺に安居す。雲衲一百五十人。藏山機を選て、第一座に充つ。秋七月朔、機に命して秉拂提唱せしむ。師、四衆の爲に垂誡。是に於て擧國及ひ石雲二州の道俗參禮する者の、日に市の如し。解制、乃ち西來に歸る。八月十九日、師、六十の初度に値ふ。門弟子集り壽筵を設る者の三日、緇素來賀する者の指屈るに勝へず。師、示衆、壽山□(山酋)崒として永く不盡の春秋を含み、福海渺瀰として常に、無邉の波浪を湧すと云の語有り。復た作州に浴す。九月朔、淨光庵主死す。其の子弟使を馳て訃を告け、且つ師に秉炬を請す。師、其の護法の功有るを以て、之を聽るす。即ち行て永壽に寓し、之を弔葬す。二七等の佛事を修し、而して後ち玉島に還る。又た播陽に趣く。下旬、久學に到る。寺主震公、相迎へて正寢に居らしむ。清衆一百六十餘。師、恙を患こと常ならずと雖も、而れども陞座小參必やなり。時を以す叢䂓肅穆誘接、倦まず。衆に對して惰容無し。醫師診候して謂らく血脈治り、精神健なり。病まざる者の如し。十一月、戒會を建つ。受者未曾有なりと稱す。十二月、稍々起居輕利ならざることを覺す。

寚(宝)永六年(1709)己丑

師、六十一歳、春正月、少く浮腫を見る。解制例に随て上堂、而も尋常と同からず。竊に世を謝るの意有り。衆皆な惻然たり。十六日、衆と同く去り、田原邨の見性寺に宿す。參禮する者の衆し。十七日、法華山に登り、姫路城に出す。瑞峯寺主邀へ請て禮待し、且つ醫藥を進む。二十五日、玉嶋に還る。緇素競ひ來て問候す。二十七日、師、藥餌を斥く。蓋し其の起きざることを知はなり。二月、書を爲て、訣を關侯及ひ衆外護に告く。關侯、人をして存問せ使るに、禮を以すなり。永壽庵の檀度、岡田氏等来て疾を問ふ。師、垂示諄諄として屬するに護法を以す。師、疾ひ病なりと雖も、然とも蚤を侵して則、起き端正にして坐す。兀として一座の浮屠の如し。客來れは則、對して言笑し、間ま有は則ち巻を執て讀誦す。其の聲朗朗として金石の如し。更闌にして乃ち寢に就く。毎日此の如し。四日の夜、少く心痛を感す。曰く、痛苦漸く迫る。大限遠からずと、越泉の澄に命して、永壽庵を鑒せしむ。居士秋山瀧口等、來り省す。師、其の遠渉を犒(ネギロフ)。六日、昧爽自ら威儀を整へ、而して舊參數輩をして入室せ令む。又た諸徒を集て曲かに後事を囑す。良英を召て大衣を付し、訖て自ら指を屈し、得度の員數次第を記せ令め、乃ち教誡して云く、吾か宗、古來兄弟の座位、或は夏臘の階級を以し、或は瑞世の前後を論し、或は支派の崇卑に準す。吾か徒の如は亦た、必ず嗣法の遅速に依らず。唯た時宜に随て可なり。一個個、時弊に墮せず。伹た大法を以て念と爲よ。居の常ね和合相に住し、道義を失は不れ。違する者は吾か徒に非す。至囑至囑。明日吾れ手を此の言を繕書し、永く龜鑑に備んと申して、告て曰く、吾れ一生世事に於て一切總て管せず。唯た法の爲に心を盡す而已(のみ)。故に正因を昧さず。佛法の化縁、今日に至る。儞か等ら善く護念せよ。又た吾れ滅後の葬儀祭禮、一に亡僧の事例に依し。火後、骨を三處に分かて、西來永壽は預め塔所を設く。本庵の如に至ては則徑に影堂の下に就て石上に薶置し、唯た開山高和尚塔の六字を書せよ。別に木塔を樹て、衣鉢を盛り、像の左に安し、木牌を右邉に置け。其の制、古朴を尚ふ可き已(のみ)。是の夜、佛像を正位に安し、親自(みつから)磬を鳴し、經咒を唱へ、左右をして之を和せ令む。又、自ら之を作る所の願文を誦す。文に曰く、沙門良高一生作る所の悪業、今、三尊の前に於て心を瀝て誠を竭し、一時に懺悔す、又た一生、修する所の微善を以て、専ら西方淨刹に廽向す。唯た願は大慈大悲の加被力を蒙て、悪業に牽かれず、悪趣に堕せず、速に本願力に乘し、早く平生の志を遂げ、臨終正念決定往生還り來て、世間一切の衆を度せんことを。誦し畢て安祥にして寢ぬ。一衆環待す。五更の初め、師、左右を呼て、扶け起さしめて坐す。左右、紙筆を進む。師曰く、是れ甚麼そ。曰く、末後の句を請ふ。師曰く、老僧平日、諸人の爲に説き了れり。如今(いま)更に個の甚麼をか道ん。左右、之を請こと再三。師、乃ち筆を怒(はげまし)書して曰く、大地山河、一堆の塵埃、今日消盡して、分明に跡無し、咄。其の筆力遒勁にして墨色淋漓たり。鼎を扛け山を拔くの勢ひ。七日の早、飛雉近き簷に雊くこと三聲。(本州湯川寺の至ら境、父老相ひ傳ふ、玄賓僧都常に曰く、吾れ再來せは則、雉應に至り雊くへしと。師、定林に住するに日偶々湯川寺に遊ふ。時に羣雉、亂れ雊く。村里、之を怪て視れは則、師至れり。人以爲らく僧都懸讖の應なりと。是より先き、圜通庵の境も亦た雉至ること無し。而今ま始て雊く。人益々以て竒と爲す。蓋し偶然に匪す。)其の聲、人の心肝を動すと曰ふ。師、從容に問て曰く、即今何んの時そ。曰く、且に禺中ならんとす。少選あつて地震こと一震。師、瞠目して衆を視る。晴光横に發して人を射る。良久して瞑目し、怡然として化す。時に白氣一道、直に正寢に當て上下に貫く。村里之を望て則ち師の示寂を識る。實て初七の禺中なり。緇素哀慟して勝へず。龕を留こと三日。顔貌、生るか如し。氣尚を暖なり。瞻禮する者の道路に絡繹として避るに地無し。弟子等、闍維の法に依て從事す。尤も靈異多し。衆目共に瞻し、口碑竸て傳ふ。茲に煩載に勞せず。火後、累累然として五色の舎利有り。遠近、土を淘し沙を汰て、灰燼皆な盡るに至る。師、疾を示してより四月餘を閲すと雖も、未だ嘗て一日も偃臥せず。鶴林の際に臨て、飄然として孤雲野鶴の所繫無き者の如し。嗚嗚、師、多劫曽て、願輪に駕し來るに匪る自は、爭か般若の靈驗、是の如の顯箸、是の如く廣大にして、而して能く天を動し人を感して、眞實にして虚ら不る者の有ることを得んや。吾か軰ら親炙多年平日の言行、目に溢れ耳に滿つ。而して一事の世諦に落る無し。末後一段の漏逗大に人家の男女を魔魅す。今録出して免れず。家醜外に揚ることを。是に至て、其の毀や、水沫を滄海に添へ。其の譽や、土塊を泰山に著く。毀譽都來、諸方の判斷するに一任す。

西來徳翁高和尚年譜終