「ハンガリー工房から生まれた伝統的日本技術」展

2003 10 21

オープニングスピーチ ヴィダヤーノシュ(翻訳 佐藤紀子)

お集まりの皆様、友人の方々、

皆様は今日この展覧会に招待状をご覧になっていらっしゃったわけですが、これがたまたまふらっと立ち寄った美術館だったとしら、今この会場をぐるっと見渡されてどんな印象をお持ちになるでしょうか。もちろん、ハンガリー語の説明書きがないとしてです。おそらく日本の工芸家の作品展の会場にいらっしゃると感じられるのではないでしょうか。よく考えてみると、実は当たらずとも遠からずではないかと私は思うのです。

今日作品展を開かれた工芸家、Domokos Judit , Mártonyi Éva , Terebess Gábor , Balogh Gabriella 氏の4名は、出身はハンガリーですが、ここに出品されている4名の方々の「芸術」「技能」「匠の技」という面から見ると、ある意味では日本の工芸家と言っても過言ではないでしょう。そのジャンルの知識と技術を手にした工匠、工芸家として彼らをそう呼んでもいいのではないかと思うのです。時代や手法、芸術の分野は異なっても、それぞれの領域で日本的なものに出会い、日本の工芸技術を習得するという表層的な次元に留まらず、もっと深遠な部分、日本的なものの深層にまで踏み込んで、それを自己表現としての創作の糧としています。

この点を強調したいのですが、それは今回の作品展が、「ハンガリー工房から生まれた伝統的日本技術」という非常に慎ましやかで謙虚なタイトルがつけられているからです。しかし、私はそれ以上のものであると考えます。日本の伝統工芸の細やかで繊細なテクニックを修得するだけでも、あるいは縄文時代にまで遡る9000 年来の技術を修得し、忠実に模倣した作品、複製を作り上げるだけでも大変な努力と技術、才能が必要だと思います。しかし、この4名の工芸家の方々は、それぞれの分野の技術に忠実に従いながらも、個性的な自分の持ち味溢れる作品を創作しています。西ヨーロッパにも同様な工芸家がいるとは聞き及んでいますが、それでも数はそれほど多くはないでしょう。私共、素人の人間にとって、今回のような作品展が開かれることによって、ハンガリーにおける日本の伝統工芸の世界とそれを担う人々に一時に出会えることは大変幸運なことだといわざるをえません。

申し遅れましたが、なぜ私がここでこのようなお話をすることになったかを申し上げねばならないでしょう。実は、私は1970 年代から80 年代にかけて10 年ほど今回の作品展の会場であるブダペスト工芸美術館に所属するホップフェレンツ東洋美術館に学芸員として勤めておりました。もう20 年以上も前のことですが、当時は私共のような人間は何か特殊な、特別な人間であると考えられておりました。当時の一般的なハンガリー人の印象では、東洋とはエクゾチックな世界であり、これは伝統的にそう考えられていたわけですが、こうしたイメージが遠からず消え去る、いえ、少なくとも希薄になるとは殆ど誰も想像だにしませんでした。ハンガリーの東洋学の世界では、美術館の学芸員といえば学問の世界の継子のような存在であり、東洋学研究の名簿にさえ載せてもらえない状況だったのです。また日本を始めとする東アジアを訪れることさえ困難な時代であり、それができるのは例外的な、幸運に恵まれた人たちだけでした。その彼らでさえ幾つもの許可の山を超えなければならなかったのです。今から思えば隔世の感があります。

テレベシュガーボル氏と出会ったのは、そんな頃でした。彼は、当時のそのような困難な環境をものともせず、許可の壁などどこ吹く風、当局の許可なく国外に脱出、世界を放浪し、日本にまで到達し、禅寺で修行、禅僧となってハンガリーに帰国したのです。帰国後は、ハンガリーにおいて東洋文化を普及させるために精力的な活動を展開します。芸術家、工芸家、作家、翻訳家としてだけでなく、出版社の経営や美術工芸品の販売にと多面的な活動に入り、いわばハンガリーの一般家庭に東洋の世界を宅配してくれる存在となりました。もちろん、その間、東洋の文化や美術工芸品、雑貨などに対する需要も、またその価値も大きく変わりました。私が学芸員をしていた頃は、たった10 日間の観光旅行で本格的な本が1 冊出版できるほど、あるいは今ではお土産として誰でも手軽に持って来れるような雑貨が大そうな工芸美術品として美術館に売り込まれるような時代でした。それが今では、そんな雑貨はハンガリー国内でも気軽に買えるようになっただけでなく、今日の作品展でもおわかりのように、日本の伝統工芸の技術を駆使した作品がハンガリーの工房においてハンガリー人工芸家の手で作られるようになったのです。

実は、ドモコシュユディット氏とも同じ頃に出会いました。ブダペスト工芸美術館のちょうどこの会場の真上、3階に並ぶ部屋で、数年間職場をともにしていました。その後、今回の作品展のカタログの企画制作など技術面を担当した、私の親しい友人でもあるパイエルカーロイ氏とも美術館の同僚としていっしょに仕事をする機会に恵まれたのです。

かつて私の専攻していた東洋美術史的に言わせていただけば、テレベシュガーボル氏は「20 世紀から21 世紀にかけての転換期ハンガリーにおける日本の伝統工芸技術のパイオニア」、ドモコシュ ユディット氏は第二世代、そしてマールトニエーヴァ氏とバログガブリエッラ氏は第三世代というように美術史的にカテゴリー化できるのではないかと思います。マールトニ氏とバログ氏はこの10 年間で二つの国の文化を体現し、活動を続けてこられました。彼らにとっては、日本や東洋で修行するためにもう高い壁を幾つも越える必要はなくなりました。より高い目的に向かって孤立した戦いを戦う必要もありません。お二人は、陶芸と漆工芸という異なるジャンルの芸術を追求していらっしゃいますが、お二人とも、長期にわたって本場日本すなわち現地で技術を学び仕事をしたという共通点を持っていらっしゃいます。第一世代第二世代にはできなかった経験です。これが、はっきりとは見えませんが、第一第二世代と第三世代の工芸家の持つ違いではないかと考えます。テレベシュ氏とドモコシュ氏の作品では、一旦それぞれの作家の個性という篩にかけて日本の伝統工芸技術の遺産が表現されています。一方のマールトニ氏とバログ氏の作品は、それらの遺産が直接開花したような印象を受けます。もちろん、これは出来上がった作品を見ての印象に過ぎません。作家一人一人の誰が、どの程度の正確さで作品展のタイトルにある日本の伝統技術、伝統手法を使い、あるいは、誰がどの程度独自に開発した手法や素材を使っているかとは別の問題です。

このたび作品展を開いた4人の方々は、実はつい最近までそれぞれの存在をお互いにご存知ではありませんでした。従って、私たちにとっては、この作品展以後の彼らの活動が気にかかるところです。この作品展をきっかけとして、4名の工芸家は、ハンガリーにおける日本の伝統工芸派というような一つの流派を作られるのでしょうか。あるいはまた、彼らは今後どのような方向に進んでいくのでしょうか。二つの祖国を持った彼らの芸術はどう発展していくのでしょうか。4名とも素晴らしい作品を生み出されているわけですが、その価値は、それぞれ自分の工房に帰って独自に個人個人の創作を続けても変わりありません。新たに彼らと似たような作品を発表する人も出てくることもありえますが、それは彼らとは関わりのないことです。また、美術史的な発展の立場からそれぞれが追求する芸術や技術の開花に積極的に貢献するというのも彼らの仕事ではないでしょう。

しかし、そういう流れが始まり、続いていくことは大いにありえることではないでしょうか。それは、美術史を紐解けば一目瞭然、歴史の証明するところであります。19 世紀の印象派に遡るまでもなく、文学で言えば、日本語を解さない人々の間でも俳句が国際的な広がりを見せています。しかし、そのためには、文化交流の面では東洋の文化が入り込む受け入れ体制が整っていなければなりませんし、芸術の面から言えば、創作する作家の中に文化が入り込まなければなりません。そうして初めて、文化や芸術の本質を残したままで、作家の個性で作り変えられた一つの作品として結晶し、他の人たちに影響を与えていくのだと思います。この場合、後生の人々には日本の環境というよりも、むしろこれまでに作られた作品自体が影響を及ぼすことになるでしょう。それまでの全ての時代の生み出した価値が高い水準で結晶し、第一第二世代の特徴、つまり、日本文化を直接開花させるというのではなく、作家の個性を通じて表現するという姿勢が、それまでの全ての時代の価値と並ぶ共通の遺産として後生に伝えられていくことななるでしょう。そうなれば、後生の芸術家は、直接的な文化環境の中で、その文化の篩にかけた上で、既に身近になった東洋文化の世界をハンガリーで開花させるにちがいありません。

工芸の名品を集めたこのブダペスト工芸美術館という由緒ある美術館に4 名の工芸家の作品が一堂に会したことに深い感銘を受けています。個々の作品それぞれがこの会場で場を占めるに相応しい価値を持った、素晴らしい作品であると思います。最後になりましたが、この作品展の開催に当たってご尽力くださった全ての方々、ご支援を賜った方々、そして、もちろん4 名の工芸家の方々に、これからのご活躍とご成功を祈念し、また今回ここにお集まりの皆様には、4名の工芸家の方々の作品がこれからも身近な場でご覧になれることを願って、私のご挨拶とさせていただきます。

どうもありがとうございました。